「普通」に生きたかった僕

僕は、「普通」の人生を歩みたかった。
「普通」に生き、
「普通」に友達と過ごし、
「普通」に誰かと愛し合い、
「普通」に結婚し、
「普通」に子どもを授かり、
「普通」に幸せな家庭を築き、
「普通」に死にたい


そう思っていた。


でも、それはできないとわかっていた。
だからこそ、そうなりたいと強く思っていた。


なぜなら、僕は同性愛者だからだ。
そう気づいたのは、中学生のときだったと思う。

 


周りの人は異性に恋をし、付き合ったり別れたり、そんな話を意気揚々と語り出す時期。
しかし僕は、異性に恋心など抱かなかった。
不思議だった。
周りは異性と付き合っているのに。なぜだかわからない。
幸運なことに、告白されたりもしたから、何度か付き合ってみた。
それでも、何かが違った。
恋愛感情を持てず、突き放してしまい相手を傷つけたりした。
罪悪感を覚え、自己嫌悪に陥った。


同性を好きになる前に、異性に恋ができない違和感から、僕は気づいた。
これは、おかしなことなんだ、と。


そうして、僕は周りと違うおかしな自分を責め、閉じ込めた。
子どもが好きだから、将来家族がほしいなと思っていた。
異性と付き合っていれば、いつか本当に愛せる人に出会えて、家族が持てるかもしれないと信じていた。


そう信じ、好意を抱いてくれた人と付き合っては別れ、傷つけた。そのたびに自分も傷ついた。
僕は人と深く関わることはできない。
僕は人を傷つけてしまう最低な人間だ。


いつしか、世間で思い描かれる普通の人生を歩むことは諦めていた。
自分は幸せになることはできない。
本当の自分を一生閉じ込めて、大切な友人や家族にも嘘をつき続けて生きていくしかない。
それはつらいことだけど、自分が嫌いな自分を知られるほうがつらいと思った。

 

 


大学生になった。
「普通」に生きることを願い、諦めた僕の前に、突然現れた人が、僕を救ってくれた。


その人は、僕を「守りたい」と言ってくれた。
初めて心から愛し合える人と出会い、僕は少しずつ変わっていった。
自分は多くの人とは違うけれど、幸せに生きることはできると教わった。


そんな人をも、僕は何度も傷つけた。
僕に、別に好きな人がいたからだ。


大切な人は、僕に好きな人がいることを見抜いた。僕は目の前の大切な人を大切にしたいと思ったけれど、好きな人への好きな気持ちは消えなかった。それが、彼を傷つけてしまった。


今まで自分を大切にしてこなかった僕は、他人を大切にすることもできなかった。


同性愛者だから、自分はだめだったのではなく、人としてだめだったのだ。


僕は自分の弱さを認め、受け入れ、大切な人を大切にしようと誓った。
何度も引き裂かれそうになったが、共に生きていくことを決めた。

 

 


出会って2年が経とうとしている。
僕は迷いなく、彼を愛している。

 


彼と出会って、僕は本当に変わったと思う。
世界が明るく見えるようになった。
どうでもいいことで笑い合えて、真剣に話し合うことができて、温もりを感じ合うことができるということの幸せを知った。
普通の幸せなんて、どうでもよくて、ただふたりがおもう幸せにこの先も向かっていければいいと思えるようになった。
家族を持つことは諦めていたけれど、僕らは家族になれるし、子どもも育てられるかもしれない。

 


そして最近、僕を強く突き動かす出来事があった。
僕の大切な人が、僕が好きだった人とごはんにいったのだ。
異性愛者である彼は、そのときこんなことを言っていたらしい。


「将来普通に結婚するし、子どももほしい。仕事のモチベーションになるだろうし」

 

 

 


衝撃だった。
いや、むしろこう考える人のほうが多いのかもしれない。


ただ、少なくとも「普通に結婚する」だとか、「子どもを育てる」ということについてひたすらに向き合い続けてきた僕にとっては、衝撃の発言だった。


ああ、僕はこの人が好きだったんだなあ


と悲しくなった。
大切にしたいと思う人が目の前にいるのに、好きな人への気持ちが消えずに傷つき、傷つけてきた。それほどに彼のことを忘れられなかった。
けれど、あっけないなあ、と思った。


僕はもう、前へ進んだのだ。
大切な人を大切にすると心に決めたものの、彼への気持ちはきっとうっすらと残り続けていくのかな、と思っていた。
もう決着はついていた。


それどころか、怒りすらわいてきた。
彼に対してではなく、「普通」とされていることを「普通」に実現していけると考えている多数の人たちにだ。


心から愛し合える人と出会い、結ばれ、新たな命を授かる。これは、紛れもなく「奇跡」だ。
この地球上では、奇跡が起こりまくっている。
起こりまくっているが故に、普通とされている。
自分も奇跡の上に生まれてきたというのに。
僕もかつてはそれが普通だと思い込み、普通にそうなりたいと思っていたが、そんな単純なことではないのだ。

 


そんな奇跡を、いとも簡単に起こしたうえに、仕事のモチベーションにしていこうと考えている人たちがたくさんいるのか。


たしかに仕事をしていくうえで、家族を養っているという自覚は大きなエネルギーになるだろう。


しかし、はなからそれを目的にし、「普通の幸せ」とやらについてまじめに向き合うつもりもない人に、僕は強い憤りを覚えた。

 


絶対に負けねえ、そう思った。
そんな人たちに、僕は絶対に負けたくない。
何において負けたくないのかはわからないが、とにかく負けたくないという思いがこみ上げてきた。

 


誰が何と言おうと、
僕は大切な人を大切にしながら同じ道を歩いていくし、
道端に咲いた小さな花の綺麗さに気づきたいし、
壮大な景色の美しさも日常の景色の尊さも見つめたいし、
ひとつひとつの喜びも悲しみも噛み締めながら生きていきたい。

 

 

 


「普通に生きたい」
そう願っていた頃の僕に、言ってやりたい。

 


「普通」の幸せなんて、「当たり前」の幸せなんて、ないんだと。
普通に生きている人なんて、いないんだと。


まあ、たくさんのことを感じてきた今だからこそ思えることだから、あの頃の僕はわかりゃしないと思うんだけど。

 

 


いくつもの奇跡のうえに、僕たちは生きている。
僕は、そのひとつたりとも、ないがしろにしたくはない。

 

 


今は、強く強くそう思える。
もう弱い自分も受け入れられる。
同性愛者である前に、僕はひとりの人間だ。
ひとりの人間として、生きる。


同性愛者とか異性愛者とか、そんな一側面に捉われず、誰もがひとつひとつの奇跡をないがしろにせず、きちんと向き合い大切にできる世界になればいいなと思う。
優しくて、素敵な世界に。

 

 


そんな世界が、「普通」になればいいな。

 

 

(2017年、夏)

ノンケに恋する恐ろしさ 〜おっさんずラブ〜

今、巷で話題のドラマがある。土曜ナイトドラマおっさんずラブ」だ。「おっさんずラブ」とは、おっさん同士のピュアな恋愛模様を描いたドタバタラブコメディだ。ザテレビジョンによるウィークリー視聴熱ランキングでは、放送開始から3位→2位→2位と順位を上げ、第4話ではゴールデンタイムの各局看板ドラマを差し置き、堂々の1位を獲得している。また第5話放送直後には、同タイトルがツイッターのトレンド1位に輝いている。加えて同ドラマの公式ツイッターは、5/20付でフォロワー数17万人を超えており、ヒロイン「武蔵部長」の公式インスタグラムは40万人という驚異的なフォロワー数に迫ろうとしている。これらのことから、今まさに日本中がおっさん同士のラブハリケーンに巻き込まれていることがはっきりとわかる。
 ここで「おっさんずラブ」のストーリーを振り返ってみよう。
女好きだけど、まったくモテない33歳のおっさん・春田創一(田中圭)。 だが、しか~し! 彼はある日突然、“未曽有のモテ期”を迎えることに!それは文字通り“未曽有”の事態。 なぜなら、愛を告白してきた相手は…ピュアすぎる乙女心を隠し持つ“おっさん上司”黒澤武蔵(吉田鋼太郎)と、同居している“イケメンでドSな後輩”牧凌太(林遣都)だったからだ――!(公式HPより)
ここから見て取れるように、このドラマのカテゴリーは「BL(ボーイズラブ)」に当てはまる。日本の芸能界には、LGBTの草分け的存在として「オネエ」と呼ばれる人々がいる。世界的にLGBTへの理解が深まる中、日本にも少しずつその波がやってきているのはたしかであろう。近年では、「オネエ」というポジションではなく、「普通のゲイ」がドラマや映画に登場することが多くなった(普通という言葉を使うのは憚られるのだが)。しかしそれでもまだ仕草や口癖が女性的であったり、マッチョで短髪であったりというように、いわゆる世間のイメージするところの「ゲイ」として描かれるパターンが多かった。そこに突然、打って変わって全く違う切り口で攻め込んできたのが、この「おっさんずラブ」である。
 
 まずここでのゲイは、先述したいわゆる世間に刷り込まれたゲイではなく、「見た目も言動も一般的な男」として描かれているという特徴がある。牧も部長も主任も見た目からゲイであることは到底わかり得ず、「ゲイであることを隠して生きる人」を自然に演じている。この点については、当事者からするとかなりリアルである。いかに自然に一般社会に溶け込むかどうかが、我々にとっていかに重要であるか、制作サイドは承知の上なのだろう。また、このドラマは王道ラブコメディの様相を呈しており、「たまたま」主人公とヒロイン、その他のラブ参戦者が男であったとでも言いたげな自然さが感じられる。つまり、「ゲイの恋愛」ではなく、「恋愛そのもの」を描くことに着眼点を置いているのだ。作品中に「ゲイ」という言葉があまり出てこない点からもうかがえるだろう。これらのことから、このドラマが「月9的超どストレートぴゅあぴゅあブコメディ」を男同士で描くことによって、強烈なオリジナリティを表出していることがわかる。
 
 その中でも、このドラマの大きな特徴の一つとして、「主人公がノンケ(異性愛者)である」という点が挙げられる。ゲイに対しがちがちの偏見を持っていた春田が、自分がゲイに恋愛感情を向けられることによって少しずつ変わっていく姿には、春田と同じように偏見を持つノンケ男子たちへの重要なメッセージのように感じられる。というかもう本当に、春田は自分の可愛さをいい加減自覚してほしい。全方位に可愛さを撒き散らしすぎ。まじ罪すぎ。大罪。全面的に部長に賛成。それはさておき、ここに一つの重大な問題が浮かび上がる。それは、「ゲイがノンケを好きになる問題」だ。
 
 ゲイとノンケは、そもそも性的指向が異なる。つまり、ゲイは男性に、ノンケは女性に恋愛感情を抱く。そのためゲイの恋愛パターンとしては大きく二つ挙げられる。一つは、ゲイ同士の恋愛。そしてもう一つは、ゲイとノンケの恋愛だ。ここで問題なのが、後者は基本的に「ありえない」ということだ。なぜなら、ノンケは女性に恋愛感情を抱くため、例え男性に好意を向けられたとしてもそれにこたえることができないからだ。単純な話である。しかし世の中そう上手くはできていない。ゲイは、生まれた時から自分がゲイだとは思ってもいない。物心がつき、恋をした相手が男だった、そのとき初めて自分の恋愛対象に気づく。となれば、その恋をした相手はほぼほぼの確率で「ノンケ」である。いきなり恋をした相手も同じくゲイだったというパターンはなかなかないだろう。つまり、ゲイの初恋は、ほぼ失恋で終わる。この恋心は抱いてはいけないものだ、伝えることなどできない、気持ち悪がられたらどうしよう、といった想いが駆け巡り、自分を責めるようになる。中には、勇気を振り絞って告白する者もいるだろう。しかしノンケの恋愛対象はもちろん女性なので、あっけなく振られてしまう。そうして、傷つき、気づく。ノンケに恋をしてはいけないのだ、と。次第に心を閉ざすようになり、ゲイの世界に身を置き、ゲイの世界だけで恋愛を楽しむようになる。そのほうが自分も相手も傷つかないからだ。作中でも、武川主任と牧の会話でこのゲイのノンケに対する思いを表している。
 つまり何が言いたいのかというと、「ノンケに恋をするというゲイであれば誰もが通ってきたであろう苦しみの道をこんなにもぴゅあぴゅあファンタジーに描かれるとつらみがすごくて本当に胸が苦しい」ということである。これは非常にやっかい極まりない事態である。なぜなら、日本中のゲイに、「ノンケに恋しても、わい、ひょっとしていけるのでは??!」と錯覚させてしまう危険性を孕みに孕みまくっているからだ。だめだ、だめだ、騙されてはいけないぞ諸君。皆の者、あの若かりし頃の苦い記憶を呼び起こすのだ。ノンケに恋するあの鬼畜の極みのようにつらい日々を。どう願っても叶うことのない恋心の痛みを。牧春は、我らの苦しみを一心に背負い、そして、我らの分まで叶えようとしている。ぼくらはそれを、ただただ心の底から応援することしかできない。それでいいではないか。牧春が結ばれ、幸せになること、それ以上何を望むことがあろうか、いや、ない。なさすぎる。牧春ではなくとも、むさはるでも同じことだ。とにかくみんな幸せになってほしい。
 
 
 神様、ぼくらにもう一度初恋をさせてくれるなら、その時はどうかぼくらを傷つけないでください。もしノンケに恋をしてしまったときにも、傷つく必要のない世の中にしてください。「おっさんずラブ」が、ぼくらの夢を乗せて最終回へ向かっていきます。どうか明日も、平和でありますように。
 
 

おっさんずラブ放送中に書いた記事です)

The way he looks ー彼の見つめる先にー を観てきましたぞ。

久しぶりに、ひとりで映画館に向かった。今回の目的は、「彼の見つめる先に」を観るためだ。

 

この映画のあらすじは、こうだ。

 

主人公のレオナルドは、全盲の男子高校生。幼馴染のジョヴァンナといつも一緒にいて、学校でも私生活でも助けられっぱなし。両親にも支えられて生活しているものの、思春期のレオナルドはそれを過保護に感じている。学校ではクラスメートに心ない言葉を浴びせられ、次第に家を出て海外へ留学したいという思いが芽生える。そんな中、二人のクラスにガブリエルという男の子が転校してくる。彼はレオナルドに理解を示し、一緒に過ごすうちに仲良くなっていくものの、レオナルドに好意を寄せるジョヴァンナはそれに嫉妬し、三人の関係がもつれていく。

 

 

この映画のテーマは、一見「全盲の高校生のボーイズラブ」と捉えられうる。実際に僕も「LGBTをテーマにした映画」としてこの映画を知り、観に行ったのだが、観た後にはこの映画はそんなくくりで語れないほどに純粋な、「恋の芽生えの物語」だと感じた。全盲のレオナルドは男性と女性の視覚的判断ができない。それゆえ、視覚以外の感覚を頼りに相手をだんだんと意識していくのだが、その様子がしっかりと描かれている。歩くとき、自転車に乗るときに触れる体。相手の声や、好きな音楽。その人の服に染み付いたにおい。キスの触感。全身で相手を感じ、意識し、恋に落ちていく様が繊細に表現されていた。それがもう、愛おしいのなんの。好きになった人がたまたま同性だったという事実が、目が見えないという障害によりリアルに浮かび上がるのだ。ゲイとかレズとかストレートとか以前に、恋をすることは、ただひたすらに美しいということを感じさせてくれる。

 

僕はLGBTの当事者なのだが、最初にどのように恋が芽生えたかなんて全くもって覚えていない。気づいたら、男性が好きだった。しかし、それに気づかないふりをした。自分は異常だと思い込み、普通でありたいと願った。この映画には、そんな当事者の葛藤はあまり登場しない。登場する葛藤といえば、友達以上恋人未満の相手との関係性や、過保護な両親との関係性、障害を馬鹿にするクラスメートとの関係性だ。全盲であるということを除けば、ごく一般的な高校男児の初恋物語なのだ。そこがまた、よい。絶妙に、よい。誰の初恋も尊いもので、同性が好きだからといって自分を責めたてる必要など毛頭ないということを教えてくれた。この尊さに救われる人も多くいるのではないだろうか。

 

僕は、人が恋に落ちていく過程は視覚的情報が大部分を占めていると思っていた。自分も、男性的な体や見た目、ふるまいがいつのまにか好きになっていて、ほっそい体やでっかいおっぱい、かわいい化粧や服などいわゆる「女性的」に惹かれることはない。目に入ってくる情報で好みを判断し、あとからその他の情報は入ってくるものだと思っていた。それゆえ、というかそもそも全盲の人がどのように恋をするかということについて考えたことがなかったのだが、この映画をみたあとには、「もう、好きになった人が好きなんだよ、ただそれだけでいいじゃんよ」と一周まわってLGBTとかどうでもよくなったというか、そんな次元で争いや差別が起こっていることに怒りすら芽生えた。恋をする、ただそれだけでひたすらに尊いのに、わざわざくくりにはめこんでんじゃねえよと。

 

まあそんな感じで超いい映画だったのですが、ひとつだけしっくりこなかった部分が。レオナルドは目が見えないがために、歩くときにスティックを使っているのだが、ジョヴァンナやガブリエルと一緒に歩いているときは相手の腕を掴んで歩いていた。レオナルドがガブリエルの腕を掴んで歩いているところをクラスメートが見かけた時に、それがカップルのように見えたらしく「アツアツだね~」と馬鹿にするシーンがある。ここに同性愛差別的な要素が表現されており、レオナルドは中指を立てて彼らに反抗する。しかしラストで二人が結ばれた後、二人で歩いている時にクラスメートに再び馬鹿にされるシーンでは、彼らは掴んでいた腕を離して手を繋ぎ、堂々と去っていくのだ。クラスメートたちは「ガチだったのかよ~wwwww」と笑って終わるのだが、ここが僕は気に食わなかった。いや、もっと、愕然としろよ、と。おめえら人を馬鹿にするだけしといて自分らは軽いノリの恋人遊びしかやってねえくせに調子のんじゃねえよ、悔しがれよ、圧倒的な尊さマックスLOVEの前にひれ伏しやがれよと。最後まであいつらは障害を持つ人+同性愛を馬鹿にするくそしょーもないやつらなだけで終わったというこの点だけが唯一腑に落ちなかった。

 

それでも全体を通してストーリーもわかりやすく人物像もはっきりしていて、俳優陣の演技も素晴らしく音楽もマッチしていて本当にいい作品だった。全人類がこの映画を観て、ただひたすらに恋をすることの美しさを全身で感じてほしい限りだ。さすれば、世界はまたひとつ、平和に近づくことだろう。